丸山晩霞記念館

TOPコレクション

コレクション

  • 高原の秋草 / 丸山晩霞
    1895〜99年

    解説を読む

    本作は丸山晩霞自身が「その年の夏吉田氏が私の郷里にやってきて、高原に秋草の花の咲いているところを共に写生した」、「彰技堂時代のやり方と違って、自分は忠実に自然を写生することに努力した」と回顧している。実は長らく吉田博の手元にあった作品であり、友情の印といったところなのだろうか。
    画面左から冷涼な風が吹き抜ける一瞬の様を描写しているが、山の霊気や湿度、温度までが伝わる丸山晩霞の代表作の一つである。取材地は湯の丸高原と推測される。
  • 杏花の里 / 丸山晩霞

    解説を読む

    現在の千曲市森付近の杏畑。丸山晩霞は、日本水彩画会を旗揚げした後、全国各地を回り取材や指導、講演などに奔走した。
    支援者も多くいた地元長野県には、頻繁に帰省していたようで、この作品もその際に描かれたものと思われる。旧信越本線(現在のしなの鉄道)沿線には、丸山晩霞の足跡として個人蔵の作品が多く残っている。
  • インターラーケン / 丸山晩霞
    1911年

    解説を読む

    第一回洋行(1900〜01年)で強い感動を得たヨーロッパアルプスへの憧れから、丸山晩霞は1911年2回目の欧州取材に出た。この旅では、「欧州の山岳研究」を主たる目的としていた。丸山晩霞自身が1回目の欧州滞在で影響を受けたのは、イギリスの田舎で描いていた田園画家の生活スタイルであるが、第2回目の滞在では、ウイリアム・ターナーの山岳風景画に多くの影響を受けたと自ら語っている。
  • 杜鵑啼く白馬山麓 / 丸山晩霞

    解説を読む

    こ山岳画家として、日本における山岳文化の広がりには、多くの画家が協力していた。白黒でしか見ることのできなかった美しい日本の山々の様子を、みずみずしい色彩で描写したことは、当時の日本人にとっておおきな感動であったに違いない。 本作は、高山植物に博学であった丸山晩霞らしく、水芭蕉、リュウキンカ、キヌガサソウ、オオサクラソウなど数々の花が描かれている。
  • 春の日 / 丸山晩霞
    1898年

    解説を読む

    丸山晩霞が明治美術会展に初入選した時の作品。地元祢津村(現東御市祢津)の農村の初春をのどかに描いた初期の秀作である。この翌年、群馬県沼田付近で吉田博と出会い、水彩画家としての生涯を決意したのである。
  • 山巓麗花 / 丸山晩霞
    1942年

    解説を読む

    丸山晩霞は、1900年代後半から、背景に高山や渓谷、前面に高山植物を題材とした作品を多く描いているが、その中でもっとも愛した石楠花を描いた丸山晩霞最晩年の大作である。このような構図は、軸装された「和装水彩」にかなり多くの作品が残されており、丸山晩霞が当時人気作家であったことを偲ばせる。しかし画壇からは「装飾的な絵ばかり描いている」と痛烈な批判を受けた。
  • 祢津風景 / 丸山晩霞
    1900年以前

    解説を読む

    丸山晩霞の故郷・祢津村(現東御市祢津)を描いたもので、冬枯れの柿の木の描写は見たままではなく、木の性質を知らずには描けない、実にリアルなものである。そして画面右に描かれた点景人物が、里山の雰囲気と人々の生活感を見事に表現している。
    丸山晩霞の初期の作品には、郷里の風景に対する深い愛情が感じられるのである。
  • セーヌ河畔 / 三宅克己
    1902年

    解説を読む

    丸山晩霞にとって三宅克己は衝撃と憧れを強く抱いた画家であろう。1897年(明治30)に渡米してイェール大学附属美術学校で学び、水彩画は幸運にも一括して買い上げられた。三宅はそれを資金にアメリカから渡欧して1899(明治32)年に帰国した。三宅が晩霞を知ったのはこの年開催されていた明治美術会展である。
    三宅によれば、前年にすでに晩霞と知己となった大下藤次郎が、晩霞の作品を激賞するので、連れだって展覧会に出かけたという。「出品画はいずれも丸
    山君の郷里、信州の浅間山の麓の景色を描いたもので、その緻密な写生は率直にしかも深刻に自然を描写されたもので、実にその自然に対する真剣の態度は
    、一筆一筆の上に表れているので、私は一度見たばかりで、断然感服してしまったのであった。(中略)絵のために美しい絵を描き上げたといった、不自然の作画の多い中に、丸山君の作画のみは、何だか信州の空気が画面に漂っていて、見る私たちをして浅間山の山麓に引きずられていくような力強さを感じた
    のである」と三宅はすっかり丸山晩霞の水彩画に魅せられて、信州に移住することを決意した。
  • 南仏カーニュの教会堂 / 三宅克己
    1912年

    解説を読む

    三宅は丸山晩霞と同じ祢津村(現東御市祢津)への移住を望んでいたようだが、当時三宅克己は新婚だったので、全く身寄りのない土地での生活が妻への負担になることを考えて小諸を選んだのである。「丸山君は早速祢津村から小諸町に来られて、色々と不自由のないように、私どもの世話を焼いてくれられた」と、想い出を語っている。また、明治学院の先輩である島崎藤村とも出会うこととなり、後に小諸義塾の図画教師に就いた。島崎藤村が著した『千曲川のスケッチ』は、晩霞、三宅と過ごした信州での暮らしや自然を描写したものである。
    晩霞にとって三宅の水彩画は、色彩が斬新で、海外の香りに満ちたものに映ったことは間違いない。 このように晩霞、吉田、三宅、大下の4人が出会い、明治期の水彩画の「明星」となるのであるが、三宅克己の渡米、渡欧経験は、同時に彼らの海外への憧れに火をつけることとなった。